Se connecter夜、布団の中で仰向けになると、胸の奥で音が二つに分かれる。
そのことに気づいたのは、いつからだったか、もう思い出せない。片方はいつもの、聞き慣れた自分の鼓動。もう片方は、それよりわずかに速く、まるで何かに急いているような、せわしない音だった。 トク、トクトク。トク、トクトク。 耳の奥ではない。もっと深いところで鳴っている。 仕事の疲れだろう、と思うことにした。ここ数ヶ月、残業が続いていた。以前、軽い不整脈を指摘されたこともある。だから体の音には、人より敏感なのだと、自分に言い聞かせた。 病院では異常なしと言われた。心電図にも、聴診にも、何も引っかからない。医者は「ストレスでしょうね」と、判で押したように言って、それ以上は取り合ってくれなかった。 昼休み、給湯室で美咲に声をかけられた。「最近、顔色よくないね」 うれしかった。誰かに気づいてもらえたことが。だから、つい話してしまった。「実はさ……胸の内側で、音が二つ聞こえるんマンションのエントランスは、夜になると音が消える。 外の車の走行音も、人の足音も、ここまで届かない。 ただ自動ドアが閉まるときの、わずかな空気の揺れだけが残る。佐伯は、この静けさが嫌いではなかった。 仕事で擦り減った心が、夜のマンションに満ちる無音の中で少しだけ落ち着く。 帰宅はいつも遅い。 人とすれ違うこともほとんどない。宅配ボックスの前を通り過ぎようとして、足が止まった。 ひとつだけ、ランプが点灯している。 荷物が届いているらしい。「……頼んだ覚え、ないんだけど」胸の奥がざわついた。 それでも、誤配かもしれない。 そう思い直し、暗証番号を入力する。扉が開くと、薄い段ボール箱がひとつ。 軽い。 紙のような重さだ。部屋に戻り、靴を脱ぐより先に箱を開けた。 中には、写真が一枚だけ入っていた。玄関前の床から、斜め上を見上げる構図。 夜中のマンションの廊下。 佐伯の部屋のドア。撮影者は、床に這いつくばっていたのだろうか。 そんな位置からしか撮れない角度だった。胸の奥がひゅっと縮む。 寒さではなく、背中を指でなぞられたような直接的な嫌悪だった。佐伯は反射的に玄関の鍵を確認した。 しっかり閉まっている。 チェーンもかけた。 それでも胸の奥の冷えは消えない。翌朝、管理人に写真を見せた。 管理人は眉ひとつ動かさずに言った。「昨夜は誰も来ていませんよ。防犯カメラにも、何も映っていません」「……じゃあ、これは?」「さあ。悪戯じゃないですか」事務的な声。 しかしその声の奥に、言い淀むような硬さがあった。 佐伯はそれを追及できなかった。◆ 二日目:部屋の中の写真翌日。 また宅配ボックスのランプが点いていた。嫌な予感が背中を撫でる。 それでも確認しないわけにはいかない。 暗証番号を押す指が震えた。箱の中には、また写真が一枚。リビングの写真。 昨夜のものだ。 照明の色、置いてある雑誌、カップの位置まで一致している。佐伯はその時間、確かに家にいた。 ソファで動画を見ていた。 しかし写真には、佐伯の姿がどこにも写っていない。「……どうやって撮ったんだよ」声が震えた。 鍵は閉めていた。 窓も施錠していた。 誰も入れるはずがな
夜、布団の中で仰向けになると、胸の奥で音が二つに分かれる。 そのことに気づいたのは、いつからだったか、もう思い出せない。片方はいつもの、聞き慣れた自分の鼓動。もう片方は、それよりわずかに速く、まるで何かに急いているような、せわしない音だった。 トク、トクトク。トク、トクトク。 耳の奥ではない。もっと深いところで鳴っている。 仕事の疲れだろう、と思うことにした。ここ数ヶ月、残業が続いていた。以前、軽い不整脈を指摘されたこともある。だから体の音には、人より敏感なのだと、自分に言い聞かせた。 病院では異常なしと言われた。心電図にも、聴診にも、何も引っかからない。医者は「ストレスでしょうね」と、判で押したように言って、それ以上は取り合ってくれなかった。 昼休み、給湯室で美咲に声をかけられた。「最近、顔色よくないね」 うれしかった。誰かに気づいてもらえたことが。だから、つい話してしまった。「実はさ……胸の内側で、音が二つ聞こえるんだ」 美咲の表情が、一瞬だけ止まった。笑おうとして、笑いきれなかったような、中途半端な顔だった。「……あ、そういえば新しいカフェできたの知ってる? 今度行こうよ」 あまりに唐突な話題の転換だった。それきり、美咲はその話をしなくなった。目が合うと、少し困ったように微笑むだけで、何か言いたそうに口を開きかけては、結局黙る。その顔を見るたび、彼女は本当に何も知らないのだろうか、と思うようになった。 もう一つの鼓動は、日を追うごとに存在感を増した。まるで自分の鼓動に合わせようとするかのように、リズムを寄せてくる。追いつき、重なり、また少しずれる。その繰り返し。 ある晩、それは変わった。 トン・トトン・トン。 単なる鼓動ではなかった。何かの符号のような、意志を持ったパターン。何度も、何度も、同じリズムが刻まれる。 布団の中で、胸に手を当てる。音が、言葉のかたちを持ち始めていることに気づいた瞬間、うなじの毛が逆立った。「出して」
深夜二時、母の携帯電話が鳴った。母が死んでから、もう八ヶ月になる。契約はまだ解約していない。役所や保険の手続きに追われているうちに時間が過ぎ、気づけば「そのうちやろう」が習慣になっていた。棚の上で充電されたまま、液晶には去年の夏、家族で行った海の写真が待ち受けとして表示されている。それを消すことが、母という存在をこの世から完全に消してしまうような気がして、どうしても踏み切れなかった。だから、電話が鳴ったとき、私は数秒、呼吸を忘れた。営業電話だろうと自分に言い聞かせ、鳴り止むのを待った。案の定、数コールで留守番電話に切り替わる音がした。それだけなら、いつも通りだ。だが、通知ランプが赤く点滅していた。メッセージが、一件。再生ボタンを押すのに、ずいぶん時間がかかった。留守電の設定など、母の生前のまま誰も触っていない。誰かのいたずらだ。そう思いながら、指を伸ばした。「──さやか」母の声だった。「今日、傘持っていきなさいね。夕方から降るから」それだけの、何でもないメッセージだった。私は動けなくなった。発信日時を確認する。今日の、午後二時三十四分。その日は朝から晴れていて、天気予報の降水確率は十パーセントだった。馬鹿げている。そう思いながらも、念のため折り畳み傘を鞄に入れて家を出た。六時を過ぎた頃、空が唐突に曇り、雨が降り出した。傘のおかげで濡れずに済んだ。それだけの話だ。偶然だ、と自分に言い聞かせて眠った。三日後、また電話が鳴った。「さやか。今日は駅の階段、気をつけて。人が多いから」その日の夕方、私が使う駅の階段で将棋倒しのような転倒事故が起きた。ニュース速報が流れたとき、私はいつもと違う出口を使っていたおかげで巻き込まれずに済んでいた。一週間後には、こうだった。「今夜、鍋には気をつけて。火、消し忘れないでね」その夜、コンロの火を消したはずが、確認すると小さく点いたままだった。青い炎が、暗い台所で静かに揺れていた。背
深夜一時過ぎ。 寝る前にスマホを充電器につないだ瞬間、通知音が鳴った。 千春からだった。 「助けて」 短い一言。 絵文字も句読点もない、生々しいメッセージ。 私はすぐにトーク画面を開こうとした。 だが、画面には“送信中…”の文字が点滅したまま、メッセージが読み込まれない。 既読もつかない。 アプリを閉じても、再起動しても同じだった。 その後も通知は続いた。 「来た」 「ベランダ」 「入ってくる」 どれも“送信中”のまま固まっている。 私は震える指で電話をかけたが、呼び出し音が一度鳴っただけで切れた。 眠れないまま朝を迎えた。 翌日、会社に向かう途中で、別の友人から電話が入った。 「千春、亡くなったって……」 頭が真っ白になった。 深夜一時半頃、自宅マンションのベランダから転落したという。 警察は事故として処理しているらしい。 私は震える手でスマホを取り出し、美咲とのトーク画面を開いた。 その瞬間── すべてのメッセージに一斉に既読がついた。 固まったままの“送信中”が、まるで誰かが一気に読み上げたかのように消えていく。 そして、新しいメッセージが届いた。 「次はあなた」 私は息を呑んだ。 画面が勝手にスクロールし始める。 千春との過去の会話が高速で遡られていく。 最後に止まったのは、数ヶ月前のやり取りだった。 千春「最近、
団地の朝は、毎日同じ匂いがする。 味噌汁。 洗濯洗剤。 どこかの家の焼き魚。 小学五年生の美咲は、その匂いを吸い込みながら玄関を開けた。 「いってきます」 「いってらっしゃい」 母・良子は笑っていた。 いつもの笑顔だった。 ──その日までは。 学校から帰ると、母は台所でコロッケを揚げていた。 「おかえり」 笑っている。 夕飯のときも。 「今日はテストどうだった?」 笑っている。 夜、テレビで芸人が転んでも笑っている。 ニュースで事故が流れても笑っている。 父が仕事で叱られたと話しても笑っている。 同じ笑顔。 同じ口の形。 同じ目。 まるで写真だった。 美咲は首をかしげた。 (お母さんって……こんな笑い方だったっけ。) 翌日も。 その翌日も。 母は笑っていた。 近所のおばさんが転んでも。 スーパーで財布を落としても。 包丁で指を切って血が流れても。 「大丈夫よ」 笑ったままだった。 赤い血が白いエプロンを染めても、眉一つ動かさない。 美咲の背中を冷たいものが這った。 夜。
浴室の鏡に、それを見つけたのは半年前のことだ。 左肩に滲んだ、茶色い染み。指でこすっても消えない。よく見ると、線が不自然に折れ曲がっている。ひらがなの「じ」に、見えなく もなかった。 気のせいだ、と思うことにした。 けれど体は、こちらの都合など聞いてくれない。気づけば二の腕に、胸に、うなじに──増えていた。数えるのをやめた頃には、もう身体中が薄い文字の下書きのようになっていた。 皮膚科では「アレルギーでしょう」と言われた。二軒目では「ストレス性の色素沈着」。三軒目の医者は、聴診器を当てながらこちらの目を見ずにこう言った。「痣に文字が見えるというのは、よくあることです。人間の目は、意味を探してしまう生き物なので」 そう言われて、少し安心した自分が悔しかった。 夜、電気を消した部屋で、体中の文字を紙に書き写す作業だけが習慣になった。順番はわからない。意味もわからない。ただ、増え続ける文字の数だけが、自分がまだ「読み切れていない」ことを教えてくれた。 紙の上で文字を組み替える。じ、こ、が──幾晩も睨み続けたそれが、ある夜ふいに、文になった。 じこが おきるまえに にげて 事故が、起きる前に、逃げて。 読めた瞬間、部屋の奥でガス警報器が鳴った。考えるより先に体が動いていた。裸足のまま玄関を飛び出し、階段を駆け下りる。背後で、鈍い爆発音。 助かった。 そう思ったのは、一瞬だった。 翌朝、避難先で借りた服の袖をまくると、右 手の甲に新しい染みが浮かんでいた。まだ輪郭も薄い。けれど、なぜだろう。この文字が何と読めるのか、もう分かる気がした。 ──違う。分かるんじゃない。 読ませてもらえているのだ。 必要な時に、必要な分だけ。逃げる場所も、 逃げ